母は逃げた。
金目のものを全て持って。
それは例えば
私の制服の冬服であったり、
母が誕生日プレゼントにくれたラジカセだったり、
私が必死に貯めていた、
写真アルバムに貼り並べた500円玉だったりだ。
更に、使っていなかった私の生理用ナプキンまで
まとめて持っていったのはどうかと思ったが、
それが生活を一から始める、
ということなのかもしれないと、
妙に納得もできたのだった。
母は一人で逃げた。
行くあてがあったわけでもなく、
家からかき集めた全てを
リヤカーに載せて出て行った。
その姿を近所の新聞配達の人が
朝方4時に目撃したらしい。
リヤカーで荷物を運ぶなんて最近見ないから、
夜逃げかな、と思ったけれど、
朝日のぼってたから、どうなんでしょうね、
なんて言うんでしょうねと、笑っていた。
リヤカーなんてどこにあったっけ、
と父と話していたら、
浮浪者が一人訪ねてきて、
オタクのババアにリヤカーを貸したが、
帰ってこない、と文句を言った。
車の運転ができない母は、
浮浪者が使っていたリヤカーを借りパクしたのだ。
おかげで私と父はその浮浪者の為に
新しいリヤカーを買う羽目になった。
学校の隅にある時は
リヤカーの値段なんて考えなかったけれど、
76800円という数字は現実的過ぎて、
リヤカーがリヤカーでなくなるような錯覚さえした。
事実それだけ出せば安い軽トラが買えるな、と父も言った。
捜索願いを出した次の日の夕方、
刑事が二人家にやってきた。
ドラマで見るようなかっこよさは皆無で、
くたびれたタダのおっさんだった。
私は学校帰りの制服のまま、二人にお茶を出した。
学校で噂になってるんじゃないかと言われたが、
どちらにしろ私はクラスメートと喋るタイプではないので、
話題になっているかどうかも知らなかった。
ただ先生には、大変だったねと言われた、
と返事をしたら、その二人も、
そうだね。大変だったね。と、つぶやいた。
大変さ、そのものが、芯を欠いたまま、
ただ呟かれていて、言われても何も思えない。
二人は、
リヤカーが見つかった、と、私たちに報告した。
街の外れの川沿い、県境の山に向かう坂道の入り口に、
いろいろを載せたまま。
やっぱり、坂道はきつかったんでしょうね、
と、笑いながら刑事が言った。
母が必死でリヤカーを引くも、
あきらめる瞬間を想像する。
きっと口癖だった、「どうにもならん」とつぶやいたのだろう。
一応、リヤカーに積まれていたものは保管してありますから、
近々取りに来てくださいねと、事務的な報告を終えると、
二人は父にむかって、
やたら夫婦間の問題について質問を繰り返した。
そこに原因があると確信しているかのように。
そして父の話を聞いていると、
私が知らないことがたくさんあった。
二人とも、お互いの肉体に性的興奮を得られ無いから、
街にあるハプニングバーに通っていたこと。
その内のある夫婦と仲良くなり、
家に招いてそういった会を何度も開いたこと。
でもだからといってその彼に
純粋な好意は持てないと聞かされていたこと。
だから私も何が原因なのかわからない、と繰り返していた。
警察官は逆に私に気をつかって、
曖昧な表現にまとめていたが、
私はただただ、あっけにとられていた。
なんてことのない新興住宅地、だった住宅街の、
二階建てのこの小さな家で、
毎日帰ってくなくてはならないこの家で、
両親と見知らぬ誰かの両親は、
警察官の言うところのフラチな行為を
繰り返していたのだ。
別に潔癖であると自分を思ったことはなかったが、
ぐるりと部屋を見渡して、
じゅうたんも、ソファも、台所さえも、
ベタベタとした大人の欲望に汚れているような気がした。
私はトイレで夕飯にと父がとった寿司を全て吐いた。
鏡に映る私の顔は、嫌気が差すほど父親に似ている。
鼻の頭に大きな赤いニキビが出来ていた。
爪と爪で思い切り潰した。
白い芯が飛び出し、それから皮脂と血が垂れた。
だから何度も洗ったけれど、なんにもすっきりしなくて、
居間に戻ると父はしゃべり続けていて、
原因がなんなのかわからない。
分かればすぐにでも解決するように努めるのに、
と、言い訳がましく言っていた。
母がなんで出ていったのか私には分からないけれど、
父親のその態度にはとにかくムカツイて、
「おかあさんもバカだけど、
人の気持ちを考えようとしないおとうさんは、
もっともっとバカだよ。救いようがないくらい。」
と、刑事二人に会釈した後に、
なるたけ冷静に、でもしっかりと伝えると家を出た。
外は土砂降りだった。
あの父とあの母でできた私に
まとわりつく何かを流したくて
私はひたすら国道を歩いた。
偶然、信号が常に青で、
私が初めて赤信号で止まったのが、
街の外れの小さな川へ向かう横断歩道だった。
信号を見るとなくぼんやりと
その色の変わるのを待っていると、
向こうから黒い猫がやってきた。
ぼんやりとした闇の中、
二つの目だけがきらきらと光っていたのだが、
突っ込んできたトラックのタイヤにあっさりと
肉塊となった。
一瞬の出来事に、私は現実感を覚えられず、
とりあえず青信号を確認してその
猫だったものの側に立った。
雨はその強さを増して
道路は白い水しぶきでいっぱいで
多分血とか流れてるんだろうけど、
ただただ、黒くツヤツヤとした
濡れた毛並みを眺めていた。
クラクションの音に我にかえる。
ヘッドライトが眩しい。
なにやら車の運転手が言っているが聞こえない。
私は濡れた猫を掴み、
そのまま横断歩道を越えて、
土手を下り、流れの強さに足を取られながらも、
川に膝まで、そして腰までつかった。
川はなまぬるく下半身は心地よく
私は身震いして排泄して
それから、ざぶざぶと流れに逆らって歩いてみた。
スカートは完全に浮いて、プリーツがゆらゆらと揺れる。
これ以上進めない、という所まで前に進んでから、
足下の大きな石をはじくように蹴り上げ
そのままぷっかりと浮いた。
雨が顔に当たって目をつむる。
流れのままに海まで行けるかとも思ったが、
すぐに浅瀬に引っかかり
引きずられるようにのりあげた。
しばらくそのまま、たくさんの音を聞いていた。
猫の死体と一緒に。
ふと、雨はやむ。
目をあける。
雲がどこかへ急ぐかのように動いている。
雨も川も、結局は何も綺麗にしてはくれなくて、
雲の晴れ間に見える月は細くて頼りがいがなくて、
私はずっと、唇を噛み続けた。
もしかしたら
母もこの川のどこかで
必死に自分を洗っているかもしれないと、
思ったら余計寂しくて、
反応のない猫を抱きしめたけれど、
その手触りはもうずいぶんと、硬くなっていた。