日々の泡

空中庭園に雪


東京に雪が降って、僕の家の前は真っ白に被さられていて
バイトに行くために自転車を引っ張りだしたけれど
10メートルも行かないうちに
雪にむりむりと阻まれて進まないことに嫌気がさして
橋の真ん中で自転車を横倒しにして欄干にもたれて煙草を吸った。


煙草を吸いながら君に電話した。
電波にも雪が積もったのか、
ぷつぷつ、
と途切れがちな携帯電話の向こうの声はあまり機嫌がよくなかった。
大事な取引先との商談中に、相手の眉間のほくろが気になって、
どうにも気になると思っていたら人差し指で触ってしまって、
相手が怒って帰ってしまったの、と一息で喋ると君は黙ってしまった。


車を運転しているようで、ウインカーの音がたまにカチカチと聞こえた。


ぷつ、ぷつ。 かち、かち。ぷつ。


僕は正直、
その指でなら押されたいんだよ君に、
やさしく、なぜるように触るだろうから、
と思っていたから余計に何も言えなかった。


ぶらんと下げたままの腕に違和感を感じて右手を持ち上げると
煙草がフィルターまで焦げていて安いナイロンの手袋の
中指と人差し指の先が溶けていた。


こんなことを伝えたらまた機嫌をそこねるだろう。
僕が風邪を引いても、私が仕事に行かなくてはならないのに、
なんで風邪なんか引くの、と、涙ながらに怒った君だ。


あれから何年たったろうか。
記憶が日々曖昧になっていく。


車を運転しながら電話をすると危ないよ、とかろうじて言うと、
あなたに指図される筋合いはないし、危ない事などなにもない。
こっちはそうやって生きているんだ、と機械的な調子で返事をされた。

また沈黙が積もる。
僕は倒れたままにした自転車のかごの上に、小さな雪だるまを作った。
走ってきたこどもが自転車につっかかって転んだ。
その子を引っ張り上げた親らしき金髪の女が、
こんな細い橋でお前は何をしているんだ、無能。と言って、
僕の雪だるまを踏みつぶして去っていた。


雪が積もったよ、とだけ、長い沈黙の後に呟いてみた。
真っ白なんだ。やりなおしてもいいというように真っ白なんだ。とも。


こっちは毎日雪よ、と彼女はこともなげに言う。
庭に出していた金魚鉢の表面が凍ったの。
でも金魚はすいすい泳いでいるわ。
餌もずいぶんあげていないけれど、動物というのはそういうものなのね。
状況、というものに無頓着で、ただただ生きながらえるの。


透明の氷の下ですいすいと泳ぐ赤い金魚。
つるつると凍った、北国の道路を携帯電話片手に運転する君。
自転車にも上手く乗れず働きもしない僕。


約束、というものが果たされるべきものなら、
僕と君はそれを凍らしてしまったかのようにちゅうぶらりんにしたまま、
距離を置いて、会う事もなくなった。


二人で暮らしているときに、
私が稼ぐから、三年たったら一緒に
あなたの行きたがっているメキシコに行こうと言った君は、
一年も経たないうちに裕福な男とつきあいだして、
男と歩いている君を追った僕は階段を滑り落ちて足を折って
一ヶ月後に退院すると僕らの部屋はそのままで、
私のものは全部棄ててね、必ず。さようなら。


とだけ
何度も眺めたメキシコの地図に大きく赤色のマジックで書き残していた。


僕はいったいメキシコのどこに行きたかったのだろうか。
いくら地図を見ても思い出せない。
僕は一人の、部屋的には君の物が全て残されているから二人なのだけれど、
君の香水ともしれない匂いが残った部屋で
じっと考えたけれど、さっぱりわからなくなって、
全てをそのままにしておいて、考えるのもやめた。
外にでると二人でよくかよった公園の
桜の蕾がほころんでいてその春先の甘い匂いが
君の匂いだった事に気づいてわんわん泣いた。
これから毎年春には泣くんだと思いながら声をあげて泣いた。


ねえ、と僕はまた呟いた。
なに。と君は答えた。
僕はどうしたかったんだろうか。
どうしたらいいんだろうか。
君は少し黙った。何かを言おうとしている沈黙。
きっと唇をゆっくりと舐めている。
電話の向こうでクラクションが鳴った。
トラックの運転手らしき男の怒声。
電話ごしの僕がいらつくようなその声を
全く気にする事もないように君は言葉を滑り出させた。


あなたは、
君は確信があるときはこういった物言いをする。
あなたは、ただ、いろいろなことに気づこうとしなかっただけなの。
それはちっとも悪い事ではないし、そういったところも好きだけれど、
でも見なければならないものも世の中にはあるし、
知らなくてはならないことももちろんあるし、
後ろではなくて前に、進まなくてはいけないこともあるのよ。
と、ゆっくり、こどもに話しかけるように言った。


僕は、よくわからない、と返事をした。
君は、それはとても残念だわ。と答えて、
パトカーの中から警察がこっちを見ているから切るね、
と付け足して電話を切った。


伝えたい事があったように、
電話からなんの音もしなくなってから気づいた。


橋の向こうから黄色い帽子を被った小学生の群れがぞろりと歩いてきたので
慌てて自転車を欄干に立てかけ、
それらが過ぎるのを待ってから煙草を吸った。
川の中州にももちろん雪は降り積もっていて、
そこでは二羽のガチョウが並んで動かない。
卵を暖めているふっくりとしたメスのガチョウを暖めるように、
オスのガチョウはその横でよりふっくりと膨らんでいた。


動物というものは無情にもおもうけれど
でもきっと僕らよりずっと素直だなあともおもう。


なにもしらなくったってできることはきっとたくさんあるはずだよ、
と口をちょっと尖らせて、ずっと北にいる君に言葉を漏らす。


大きく息を吸う。
唇も、喉も、鼻も、つんと冷たい。
肩にうっすらと雪が積もっていたのでそれを払った。
いいかげんほったらかしている部屋も掃除をしなければなあ、
と考えたとき、君の言ったことが一つだけ分かった。


吸いかけの煙草を慌てて消して、
僕は部屋へと走った。自転車は置いていった。
あれからほとんど変わっていない部屋の中をひっくり返し、
引っ張りだしたのは
空中庭園へ行こう、
と書かれた本で、その存在すら忘れていたのだけれど、
そうだ僕はメキシコの、
ここに行きたかったんだ,と思い出した。


ラピュタかなんだかのような小さな、
でも丁寧な庭園と、
広がる、空と雲しかない空間の中で
君と二人、浮遊、とただよう、
小さくて完璧な世界に浸って、
ゆっくりと時間が過ぎるのを


ああ


と僕はため息をもらす。


僕が行きたかったのはメキシコなんかじゃない。


メキシコには空中庭園なんてなかった。
どこをどうしてか
僕はそう思い込んでいたけれど、
メキシコの地図に丸までつけていたけれど
その本によると(それは確実に)
空中庭園はペルーという国のマチュピチュという地域にあるものだった。


そしてそのページには、
僕が君に出会った頃にあげた雪の結晶をかたどったしおりが、
紙と鋏でつくったお粗末な紙切れが、
へたれて破けた状態で挟まれていた。
チョコレートらしき茶色い染みをつけて。


君はそうか知っていたんだ。
知ってなお、僕がメキシコの地図を広げるたびに、
ふんふんとうなずいたり、僕の鼻に君の鼻をこすりつけたり、
指を、撫ぜるように僕の体に這わせたりしていたのだった。


本のページの間に顔を埋める。
紙の匂いと、気のせいかチョコレートの匂い。


雪の降り積もる、ふさ、ふさ、という音が聞こえる。
おとをすいこむゆきがゆったりとたてる音。


ごめんね、と声に出して言ってみたけれど、
そんな言葉に意味なんかない、
と言った君の顔や口や目や鼻を思い出して
あの感触を思い出そうと手のひらを見つめて
思い出せなくて
僕は最後の煙草を吸った。


だからといってどうしたらいいのかはやっぱりわからないけれど
まずは自転車を取りに外にでて
そのまま駅までいって
お金はないから改札を飛び越えて
きっとここよりもずっと真っ白な、
ずっと寒くてずっと不便な、
でも君が住む、町に行こうと思って
僕は本を閉じた。


このままの格好で行ったら君はきっと、
マフラーくらい巻きなよね、と、
ちょっとにやけながら
自分のマフラーを僕に巻いてくれるだろう。


ありがとう、ときちんと言って、
たまには助手席に座りなよ、と、
運転を代わって、
今日見たガチョウの話をしながら、
君がいつも車の中から見上げているという寂れた遊園地まで
車を走らせてそれから
やたらに回転が速い観覧車に乗って
一番上でぐらぐらに揺らして
緊急停止が解けるまでの短い間
そのぽかんと浮いた鉄の箱の中で
白に白が重なって広がっていく静寂の世界を
ほう、と蒸気をはきながら、
ぼうっとただ、ただ眺められたら。


改札で駅員に袖を引っ張られながら
雪もやんでしまった東京の外れで
僕はそれでも電車に乗ろうと
上着を脱いで走り出す。


電車の中、
真冬なのにTシャツしか着ていない僕を
若い女の子が見てくすくす笑っているけれど
携帯電話が上着のポッケに入っていたことにも気づいたけれど
僕はそれでもどうしようもなくにやついたまま
窓の外、
たくさんの線を低空に引いている電線にさえ積もった
無垢な雪を、
時間が止まったような
灰色とも白ともつかないどんよりとした
東京の景色が流れゆくのを、
いつまでも見ていた。

http://www.toca.jp/story/post_339.html
甲斐博和
2008.01.27