日々の泡

雨は砂糖のように溶けて積もらず


モモが2階の小さな部屋で
頭に載せたヘッドホンから響く、
音量を最大にした音の振動でくらくらとしながら
数時間前にカラオケ屋で知り合った男に体を委ねて揺れている頃、
1階の台所で母親のアカネは、
疲労と後悔とをため息と共に吐き出してから、
開けっ放しで勢い良く流れていた水をうらめしそうに見て、蛇口を締めた。
とてもきつく。

一度も当たることなく、かすることさえなかったアカネの競馬人生は、
3畳半の台所で始まり、2年という時間を経て賭ける全ての金がつき、
同じ場所で終わった。
レースの度に握られて少し歪んだ赤い色の100円均一の安物のラジオは、
料理するつもりだった魚の粗と一緒にゴミ箱に捨てられた。

「どうにもならん。」

アカネはそうつぶやくと、
テーブルの上のビールの空き缶を振り、
残っていた数滴を口にたらし、
そのまま切れかけた蛍光灯を見上げた。

電球が明るくなるのはなんとなく分かるが、
蛍光灯はなんで明るくなるのかが理解できないし、
このようにチカリ、チカリと瞬く理由は、
さらにまったくもって分からないのだった。

それでもアカネにとって、
その、ジ、ジジー、という弱々しい音と共にゆっくりと繰り返す瞬きは心地よかった。
何も考えないことを許してもらえるような、無機質の反復。

気を緩めれば襲ってくる濁流のような現実から解き放たれたのは短い間で、
アカネはまた蛍光灯の仕組みについて想いを巡らせ、諦め、
こんどはかすかに揺れる蛍光灯の上の、
2階にいるモモと見知らぬ男とのことについても考えたが、
女というのはどこでどうなってもどうにかなるものだ、
と祖母が言っていたのを思い出し、
とりあえず家を出て病院に向かうことにした。
どうにもならないことをどうにかする為に。

午後5時。冬。夕暮れ。
雨の匂いはそこかしこに満ちているが、未だしずくは落ちず。

男が案外にもしつこいので、
モモがもうすぐ彼氏が来るから帰ってと言うと、
モモの下半身に潜り込むようにしていた男は
ようやく汗だくの体を起こした。

男はモモを向いて何か言ったが
モモにはその口の動きではなんと言ったか分からず、
何?と聞き返してみたもののヘッドホンを外すのはおっくうで、
まあいいけど、と付け加えた。

そんなモモを一瞥し男はすくと立ち上がり
ベッドのスプリングで軽く勢いをつけて飛び降り、
床に散った服を掴むと、
帰り支度の一つのように化粧台の上の細々を片手でなぎ払い、
そのまま出て行った。

わけの分からない奴は慣れっこだし部屋が荒れるのは気にならなかったけれど、
いくつかの香水の瓶が割れたようで、好きだった匂いが混じり合って
安物の、年増がつけている鼻につく香水のような匂いになっていた。

大音量の音と香水と精子の匂い。
情報が多すぎて、どうにも苛ついて動かないことを諦めたモモは、
裸のまま立ち上がりヘッドホンをベッドの上に投げ捨て、
窓を開け放った。

冷たい空気の向こうにははっきりとした、
橙色から紫色のグラデーション。点在するひかり。
一瞬それはとても静かで平穏な世界。

でもすぐに騒音。ネオン。排気。
それらの生活のカスと部屋中に充満しつつあった匂いに挟まれ、
モモは昼に食べたマクドナルドのなんとかセットを全て吐いた。
小さな庭に落ちた。広がったそれは腐り落ちてつぶれた果物のようにも見えた。

いつもなら2階に向かって怒鳴るはずの母親の声が聞こえないし、
なにより窓を開けてもなお鼻につく香水の匂いに耐えられず、
割れた瓶のかけらをまたいで部屋を出て階段を降りた。

降りてすぐの台所はやけに暗くて
さっきまで夕暮れだったはずなのにいつのまにか夜が来たのかとも思ったが、
蛍光灯が切れているだけということに気がついた。

予備を用意するような母親ではないのは分かっているので
モモは蛍光灯を探すことはせず、
ガス台で火をつけ、冷蔵庫を開き、ぼんやりと明るくなった台所で牛乳を飲んだ。

空になったパックをゴミ箱に捨てたが、母親が捨てたラジオにも粗にも気づかず、
暗い台所にいる理由を失ったモモは居間へと移動し、
暖房の温度を30度にして裸のまま炬燵で横になり興味もないテレビを眺め続け、
馬鹿馬鹿しいCMの連続に嫌気がさしてテレビを消し、
微睡み、空腹に目を覚ましてようやく、
母親がこの時間にいないことを不思議に思いながらトイレへ立ちドアを開けた。

便器の上にしゃがみ込んでいるその存在を、一瞬母かと思った。

しかしそれは、じいっと息をひそめていた、さっきの男だった。
香水の入り交じった匂いが、再びモモを襲う。

きつく締まっていたはずの蛇口からしみ出した水がひとつ落ちて音が響いた。


午後11時。
台所に響く音がその振動が雲を揺らしたのか、ぽたぽたと雨。

心拍を伝える機械の音に混じって雨が窓を叩いているのに気づいたアカネは、
病院の中がすっかり静寂に包まれていることを確認する為に耳をすました。

死にかけの人間達の弱々しい息づかいと機械音。
どこか遠くで響く救急車のサイレン。
それ以外はなにもなく、
6人の人間がいるとは思えない程、病室は静かだった。

目の前には動かない夫。
倒れたのはちょうど2年前。
その時に握っていた当たり馬券のせいで
私は競馬にのめり込んだわけで。
なまじお金があったから夫は延命装置に繋がれたわけで。

幸運が不幸を連れてきて不幸は不幸しか連れてこなかった。

アカネはもう一度、膝の上に載せたノートに目をやった。
何か書き残そうと思うのに、何も出てこない。
考えていることはあるはずなのに、言葉にならない。
くぐもった灰色のような、のたりとした重苦しい頭の中の固まりを
なんと表現したらいいのか分からない。
そう言えば国語は苦手だった。
苦手だったということすら久しぶりに思い出した。

あの時頑張らなかったから、今がこうなのかもしれない、と、
ようやく納得がいって真っ白のままのノートを閉じた。

それから音を立てないように立ち上がり、ペンのキャップを外し、
色をほとんど失った夫の額に、
「燃えるゴミ」とはっきりと書くと、
夫に繋がっているさまざまなチューブを全て引っこ抜いた。

静寂。夫の瞼が痙攣する音が響く程。

ああ、なんて簡単。
思わずアカネは安堵の息を吐いた。
なんでもっともっと早くからこうしなかったんだろう。
夫を救おうとしたことが、誰一人救うことにならなかったことに、
どうして気づかなかったんだろう。


と、微笑みさえ浮かびそうな瞬間、
一定のリズムを刻んでいた機械が急に甲高い音を立てた。
ビカビカと光りだすランプ。
目の前が真っ赤になったような錯覚。
背中に吹き出す大量の汗。どうしたらいいのか分からない。
機械と叩くと音は揺れこそすれ、やむ気配がない。
電源を引っこ抜こうとするもどこにあるのか分からない。

ごそごそとシーツの擦れる音。
墓場からよみがえる死体のように、病人達がうごめいている。
ああもう頼むから死んでいて。
叫びたいほどなのに歯と歯が噛み合ずただカチカチと音が骨を伝うだけ。

看護婦の声。スリッパの音。ナースコールのブザー音。
機械から鳴り響く音はまったく変わらないまま、
装飾するようにどんどんと音が増える。

ああ、やめて。もうやめて。
わたしは悪くないのに。

アカネはやはり一言も発せず、開いたままの口元からは涎がひとすじ、
垂れるよりも早く、腰がくだけ、しゃがみこんだ。

目の前には見慣れた痩せた手。
すがりつくものはそれしかなく、アカネは両方の手でそれを握ると、
思ったよりもずっとあたたかくて、生きていて、ちゃんと生きていて、
ヒトだった。

アカネはその温度に思わず涙を零した。
もうずっと、ただのマネキンのように扱っていたのに。
このヒトはちゃんと生きていたのだ。生きようともがいているのだ。

乾ききった手の甲の皮膚に顔を押し付けた。涙のつたう頬で感じる温度と質感。
涙が染み込むたびにあたたかく、柔らかくなっていくような、
よみがえっていくような錯覚。
もっと濡らさないと。私にできることだってあるんだ。だからもっと、

数人の看護婦に羽交い締めにされ夫のもとから引き離されながらアカネは、
土砂降りになった雨を打ち続けるのを見ていた。
あの窓を開けて欲しい。と、看護婦に伝えるも耳を貸してはくれない。
あの窓さえ開いたら、たくさんの雫で夫を濡らしたら、
彼はもっともっと柔らかくなって、暖かくなって、だから、

アカネは引きずられるようにして、まだ明かりのついていない廊下を、
後ろ向きに下がっていた。
闇に繋がっているようだった窓も、
騒がしくなった病室も、
死んだように生きている夫も、
全てが目の前から遠ざかっていく。
ぼやけていく。

長い廊下を引きずられていくアカネは、
意識を失いつつあるモモがのせられた担架とすれちがったのだが、
アカネにとってはもはや意味をなさない。

ただ、途切れない雨音だけが現実で。
それだけが確かに積もっていくのだった。

http://www.toca.jp/story/post_270.html
甲斐博和
2010.02.17