やたらに甲高くて猫のような
犬の鳴き声が耳から離れない。
あれの名前はなんだったろうか。
緑のベロアのワンピースに黒い靴下の
歯並びを矯正している女の子は
鳴くな、煩い、と、
犬が泡を吹くほど紐を引いた。
吐き捨てるように呟いた名前を
その子は拾いあつめポケットに入れるようにはにかみながら
父親と同じだからね、なんかね、
と言っていたけれど、
その女の子の父親を私は知らない。
葬儀に来た顔ぶれの殆どを、私は認識できなかった。
父がどこで何をしていたのかも知らなかった。
兄の知らせで十数年振りに戻った田舎は、
色も湿度も薄れた、ただの雑な町だった。
パチンコ屋アポロの店長がいなくなっていた。
あの男は私を姦通したから丁度よかった。
プラスチック工場が潰れて廃墟になっていた。
緑のつたが生い茂って、花がやたら咲いていたが
ゴミも捨てられているようですえた匂いがした。
兄と二人で工場に父親の荷物も捨てた。
何一つ持って帰りたいものはなかった。
母親の写真を手にとって少し考えたが
力一杯投げ捨てた。
ガラスが割れる音と猫が逃げる音がした。
何もなくなった父の部屋の
セロテープで補修された黄ばんだ窓からは
父親の恋人だった女の部屋が見えた。
誰よりも派手な着物を着て
狂ったように泣きわめていていた女を
なぐさめる兄の手つきは発情した犬の下腹部のようだった。
私は一番後ろで、立ったまま、
瓶ビールをそのまま飲んで
親戚のおばさんと自らを名乗る中年に
年齢的には私とそんなに変わらないのかもしれないけれど
明らかに生活に疲れた/とりつかれた女に
聞き取れないくらいの小さな声で何度も注意された。
火葬場の近くには
なぜだか公園があるようで
午後
子どもの笑い声と
ブランコの鉄が軋む音が
きいきい、きゃあきゃあと
かすかに聞こえる。
鉄の扉の向こうで燃える炎の音が揺れ
天窓からの春の光はワタのように暖かく
ねむくなるねと
女の子が笑うので
君も公園で遊んで来なよと言うと
そんな子どもじみたことはしない、と返事をされた。
私は何か言い返そうとしたけれど
言葉にはならず二人でならんであくびをした。
向いの席に座っている女の子が
お母さんの膝の上で
にんまりとした笑顔のまま口の端によだれをつけたまま
ぐっすりと、すうすうと、寝ているのを見て
そうかあれは昨日だったのかと思い出した。
それから自分の膝の上の
兄が帰りしに黙って渡した
遺骨を入れたジップロックを包んだハンカチを見て
それから女の子と母親のむこう、
窓の向こうを見た。
丁度大きな川にさしかかっていて
夕暮れ
赤く染まった川は波うちゆっくりと姿を変え
なにか天国のようでもあり地獄のようでもあり
ただただ静かで流れてなんかいないようで
私は
とても平和な気分になって
窓を開け
あまり開かなくて
全く開かなくて
となりの老人に手伝ってもらいながら
20センチほど窓を開け
川とホコリの匂いを吸い
老人が
喪服ですね、と言ったのに答えるように
桃色のハンカチの包みを窓の外に放り出した。
陸橋の上
ハンカチは川に落ちるとおもったのに
反対側の線路の真上に落ちてしまった。
間違えた、と私は呟いた。
父親の口癖だった、と後悔した。
ゴミを捨てるなと老人が怒鳴った。
向かいの線路を特急が過ぎ去った。
ごう、と鋭い音。
がたがたと揺れる、窓、座席、床、女の子、私。
この十両編成の電車の全てと全ての乗客が
今、川の上を渡っていて揺れていて
向かいの線路でも同様に揺れていて
そして鉄の車輪はなんどもなんども
父の破片をさらに砕くのだろう。
もう川は過ぎた。
あの町と変わらない
小さな町に私は帰る。
煤茶けた小さなアパートで
私は向かいのアパートの
ベランダに出された犬に餌をやらなくては。
骨をやったら喜んだろうか。
犬の名前が兄の名前だったことに
思いあたる。