日々の泡

蓮の花は陽炎のように揺れて揺れて


ジー、ジジジ、ジー、という音が、
コンビニの前にある青色の誘虫灯に似ていると、
そう私は呟いたがやたらに背の高いその男は何も気づかないのか、
背中を丸めたまま、ずれ落ちる銀縁のメガネを直すゴム手袋をはめたその手で、
私の肌を擦り、針を乗せ、ペダルを踏み、そしてまた肌を擦った。
その行為はとても官能的で、振動の中連続する鋭い痛みは私を恍惚へと導く。

注射は死ぬほど嫌いなのに、
滑らかに私の肌を肉を細胞を切り刻むこの小さな針は心地よくて
鮮血はどんな色より嫌いなのに、
押し出され溢れる黒い染料と混じって濁った血の色は愛しくて

ああもう全身をその針で弄り続けて欲しいのに叶わない。

まだ昼間だから窓の外はとても明るいのに、
太陽はじりじりと全てを焼きそうなのに、
店の中は薄暗く、ひんやりとしていて、誰もいない教室のような匂いがする。
校庭の喧騒を聞きながら、ぼんやりと机に突っ伏していた時の匂い、孤独感。
置いてけぼりにされているような、それでいて落ち着くような、あの感覚。

すぐ脇の国道を交差し続ける車の群れとはまったく無関係に、
私は一人、上半身裸のまま、背中に針を色を、刻み込んでいる。

あなたが好きだった蓮の花を、背中に一つ。
あなたの代わりになんかなりはしないのに、
それでも何かを、
残された私が、残されなかったあなたの何かを、
何か変わらないものを、残してみたいと思ったのだ。

糞尿にまみれたあなたの体躯、だったもの、は今どこにあるのだろうか。

人の死というものに私はとても鈍感だ。
父親がベランダで首をかき切って死んだときも、
私はその顛末をテレビの向こうの窓越しに見ながら、
ドラマの最終回を眺めていた。
内容なんてどうでもよかったが、
その死に向かう人間に同情もしたくなかったし、
なにより面倒くさいと思ったのだ。

だからあなたが死んだ時も、
死んだ理由なんて気にも止まらなくて、
目の前にあったあなただったものがとても疎ましく、
マンションの下の巨大なゴミ処理室に、
生ゴミと一緒に捨てた。
猫も食わないであろう腐ったゴミと、同じように砕かれていく、
ごおん、ごおん、という音を聞いて初めて安堵したのだった。

でも、あの日、あなたのマンションからの帰り道、いつもの公園を抜ける時、
それは人通りも少ない早朝だったのだけれど、
だだっ広い池に、びっしりと薄桃色の蓮の花が咲いているのを初めて見て、
あなたがその風景について話してたようにも思うけれど、見た事はなくて、
その、もやがかった、とおいまぼろしに桃色の印を、丁寧に並べたような、
静かで、どこまでも伸びていて、風は肌に優しく冷たくて、水鳥が鳴いて、
すべてがぼんやりと揺らめいていて、やわらかくてつめたい陽炎のようで、

この瞬間を、あなたと共有できないということが、
なにか、絶望であることに気付いたのだ。
起き出した大量の蝉がけたたましく鳴き始める。

あのゴミ処理の、巨大なローラーで、私も潰れるべきだったのかもしれない。

蓮の花をちぎって持って帰ってみても、
咲いている瞬間でさえ死に向かい、朽ちていく、
その現実は私になんの幸福も与えなかった。
腐っていくその匂いだけが、
あなたの死臭を思い出させて、ただそれだけで。
私は一人、ゴミのようにしおれた花を脇に丸まる事位しかできないのだった。

「煩いですね。」

男の声で我に返る。

サイレンがとてもけたたましく近づいて来て、店の外で鳴っている。
救急車なのか消防車なのかパトカーなのかは分からない。

窓の外がいつのまにか真っ暗になっていて、
赤い光窓を通して、部屋の壁に瞬いている。
あの光に私の背中も照らされているのだろうか。

本当は男の手元の蛍光灯で、白く浮かんでいるだけ。

でも目をつむってみれば、
私の背中も赤く揺れている様に思えるのだった。

http://www.toca.jp/story/post_248.html
甲斐博和
2009.08.27