日々の泡

ヤコブの、きれぎれとした長い話


050104

額に大きなコブがあるから
周りの人間は君をヤコブと呼んだ。
ヤコブは男であったはずなのに
女の君をヤコブと呼んだ。

「あえあ」(慣れた)

と、小学生の頃に教師の貧弱なモノを舐めるよりも
噛み切ることを選んだその舌の足りないまま
唇を歪めて笑いながら言っていた。

俺にとってヤコブは何よりも大切なものだった。
教師の話を聞いた夜は
すでに老人になっている教師の家におしいり
手近にあったキリンの絵の付いた茶色い瓶を
歯の抜けた口に突っ込んで顎を蹴り上げて砕いた。
膝が多少痛くなったが
ヤコブの痛みに比べればずっとましだと思った。

ヤコブを悪く言う人間も
ヤコブの肌に触れようとした人間も犬も
力の限り痛めつけた。
俺より強い人間には道具を使い
俺より弱い人間には汚物を食わせた。
犬の皮は剥いでヤコブの毛布にした。
そのせいでヤコブは犬臭くなったが

「ああああい」(暖かい)

と喜んでいた。
ヤコブの喜ぶ顔を見るためなら
犬畜生の何匹が犠牲になったって構わないと
保健所の殺戮ほどに犬を殺した。

俺の陰湿さを知る警官達は
犬にとどまるならよしとして
金槌を持って夜の町を徘徊する俺を許した。

しかしヤコブが十分すぎるほどの皮にくるまり
結露のひどい窓の脇の小さなベッドの上で
すやすやと寝息をたてているのを見ていると
これ以上何を与えればいいのか分からなくなって
頭の中で爆竹のような音がして白いチカチカが広がり
ヤコブの顔が犬に見えるほど視界が歪んだ。

いま目の前にいるのは誰だ?
そして俺はこれをどうしたい?

犬の顔のヤコブがなにか言ったが分からなかった。

「あいええう」

俺は性的に不能だし
ヤコブはもちろん男性器を受け付けない。
交われない代わりに俺たちは
ただただお互いがお互いの奴隷のように
服従しあった。それで満足だった。

いや服従していたのはヤコブだけだったかもしれない
ヤコブが俺にものを頼んだことはなかったかもしれない
どしゃぶりの雨の中に打ち捨てられた地図のように
記憶はあやふやになっていく

俺がヤコブに求めたものは何だったのだろうか。

ヤコブ自身の幸せではなく
もっと目に見えるなにかだったのではないだろうか。
ものに換算できて計ることができるなにかではなかったか。
ヤコブは俺に何を見いだしていたのだろうか。

へんじがないからこたえがわからない

ヤコブが見せ物小屋で働くからと
俺に黙って家を出て行ってから
七百四十八時間が経過。

いまだに椅子から立ち上がれない
都合のいいように過去を組み立て直せない。
窓はいつのまにか凍りつき、強い風に砕け、
ばたばたと犬の毛がめくりあがり音を立てる。

050125

冬の夜
ヤコブと公園の桜の木の下で
花びらの散るさまを
ずっと見ていた。

ヤコブは、弱々しい月の光に
ぼんやりと白く光る花びらが
積もっていくのを一枚ずつ数え
両手で足りなくなると俺の手を使い
それでも足りなくなって
困った顔をしたまま気を失った。

花びらの中に埋もれたように倒れたヤコブの
襟ぐりのあたりが風にはだけ
形の良い小さなうなじと
不釣り合いなくらい大きな、汚いイボが見えた。

噛みちぎりたい欲望をぐっと押さえる。

きれいなものには汚いものはつかない。
汚いものには汚いものしかつかない。

そのようによく母が俺に諭したことを忘れられない。
あのイボを噛みちぎったらヤコブは美しくなるのか?

ヤコブよ、俺たちは糞袋ですらなく
糞にまみれた家畜ですらもないよ。

ただの汚物だと思うんだ。少なくとも俺はそうだ。

俺は本当に心からお前といたいのだけれど、
お前は俺に何も与えてくれない。
それじゃあ駄目なんだ。

母が言っていたから。
無償であってはいけない。
それは損でありお前の人生をすり減らすよ。
だから全てにおいてどんな大切なものよりも
自分を大切にしなくてはいけないよ。

俺の次に大切なのは
どう考えてもお前しかいないのに
お前にとって俺は必要なだけで
それは大切とは少し違う。

だからヤコブよ、
お前にはもっと幸せな人生があるはずだ。

額のコブを取ってくれる医者もいるだろうし
足りない舌と足りない言語を埋めてくれる
偉い教授だっているだろう。

だからこんな町にいてはいけない。

そのまま這いずって外に出るんだ。
犬のように四つん這いのまま
狂った犬しかいないこの町を出るんだ。

そうすれば俺は解放されて
めくるめく狂おしいほど幸せな日々に飛び込める。

昨日ホールで赤いひらひらした服を着て
踊っていた女は俺に言ったんだ。

あんたを、飼ってあげようか。
女は確かにそう言った。

俺はもうあんな工場で
両手を黒いタールに突っ込み
同じ動作を繰り返しそれでも間違え
歯が折れるほど殴られその傷口に
小便をかけられるのは嫌なんだ。

お前がいなくなって
俺を大切にしてくれる人がいて
それでも町はなにも変わらないし
お前はきっと今よりもいい生活ができる。

だからほら、這いずれ。
だから頼むから、進め。

どんなに願ってもヤコブはぴくりとも動かず
俺は冷たい風が吹きすさぶ中、大量の汗をかきながら
あの時女が俺に何を言ったのかがわからなくなって
本当は蔑みの言葉をかけられたような気がしてきて

必死で今しがたの困惑と吐露を巻き戻そうと
唇を血が出るまで噛み締め
ふと、頭を起こしたヤコブの
黒目の奥の光の奥の
黒く潰れた現実に
気がついた。

花びらまみれのヤコブは
口から花びらを吐き出し
嗚咽した。

おええ。おええ。

咳き込み、嗚咽を繰り返すヤコブは、

私はこの現実を受け入れることができないけれど
でもこの花びらは現実的に私を苦しめます。

と言っているような気がした。

でも

おええうええおうおうとしか
言っていないから
違うのかもしれない。

050315

「あれはねえ、喋れないんじゃないんだよ。
舌が足りないのもあるけどね、
ただ頭が足りないだけなんだ。脳みそだってね、
小ちゃい時からそれこそこのくらいでね、」

ひび割れの目立つ浅黒い拳を俺に突き出しながら、
俺が持って来た酒を瓶に口をつけ水のように飲みながら
ヤコブの父はすこしうれしそうに娘の話をしていた。

俺は分厚いジャンバーの内ポケットの大きなスパナを、
何をどこまで我慢しなければいけないのか分からなくなりながら、
爪から血がにじむほどに握りしめ続けながら
父親が饒舌にまくしたてる聞きたくないけれども
知りたくてたまらないヤコブの話に耳を傾け続けていた。

畳を白く細長い虫が這っている。
その短い足は三十六本。

男の寝てる間に、
それらが幾匹も幾匹も男の耳の中に滑り込み、
分厚い皮に包まれた、あらゆる貧相な精神と肉を食らい、
傀儡のようにしてくれるならば、
俺はヤコブと
男の前で永遠のなにかしらの誓いを立てることもできるだろうに。

いや、それを夢見て俺はヤコブの小さく暖かい手を取り、
この家の門をくぐったのだった。

しかしヤコブは門を入ったその場所から一歩も進む事ができず、
声を殺して唇を噛み締め醜い顔で泣き出したので、
すぐ帰ってくるからと庭の大きな犬のような形の石の上に座らせた。
ヤコブは手に持っていた俺がやったパチンコの玉を
口に入れたり手の上で転がしたりして少し落ち着くと、

あえう、あえっえいえうああい
(早く帰って来て下さい)

と祈るように両手を合わせて俺に言った。

実際ヤコブは寝る前に必ず祈る。
神というものがなんなのかを全く知らぬまま、
なにかすこしでもいいことが、明日にあるようにと、
どんな敬虔なクリスチャンよりも真剣に祈る。

「あいつは毎晩手を合わせていたよ。
何かに頼るなんてそんな情けない事をさせたくないから
その度に俺は殴ったよ。
あんがいコブが引っ込むんじゃないかとも思ったからね。」

額のコブも小さかったこどものころから、ヤコブは祈っていた。

ヤコブの寝ていたところは地下だったので
夜は、ほんとうに真っ暗で、
闇に慣れた目に入るのはたいがいが天井の薄汚れた木目で、
それに向かって毎晩のように祈っていたヤコブにとっては
それは神と等しいものだった。

その木目の上では父親が犬や猫を使って精液をぶちまけていた。
それが染みになって木目の模様を少しづつ変化させていた。

それは小さなヤコブには計り知れない事でもあった。

しかし、犬を叩き殺すように、
もしくはヤコブに暴行をはたらいた教師の顎を砕いたように、
俺はこの父親を細かい肉片にして庭にばらまくつもりだったのに、
俺はポケットのスパナもレンチも外に出す事が出来なかった。

怯えたわけでもなく、
何かを恐れたわけでもなく、
ましてやこの男を許したわけでもないのに、
俺は男が酒を飲むたびに語るヤコブの話に
じっと耳を傾け、やがてよだれを垂らしながら寝付いた男に、
毛布さえかけてやったのだ。

この俺がヤコブ以外に毛布をかけてやるだなんて!

しかもそれはヤコブにかけてやるような
つぎはぎだらけの犬の毛皮ではなく、
羊の毛を丁寧に編んだウールの毛布だった。

少なからず、
ヤコブのなにかは、この男のものだし、
この男のなにかは、ヤコブのなかにみゃくみゃくと流れている。

それを隔てるすべも介入するすべも分からないまま俺は

男の寝顔がヤコブに少し似ている事に安心さえしていた。

まだ冬なのに男の庭には
狂ったように桜が咲いていた。

その向こうでヤコブは、
孤独に押しつぶされまいと必死で歌を歌っていた。

050426

暖かくて幸せだった季節を巻き戻すように
桜の花びらが数枚、弱々しい風に巻かれて
目の前をひらひらと通り過ぎた。

花は散ったはずなのに,と,
桜の枝を見るとやはり
芽吹いた緑だけがびっしりと張り付き
満開だった花びらの面影すらもなかった。

息を吐いて目を落とすと
舗装された道の隅で
土に帰る事も出来ない
掃き溜められた花びらが積もっていて
それらが
絶え絶えに吐息を吐くように
さらさらと
揺れていて
そのうちの
数枚が
薄くて貧弱な数枚が
吹き上げられていた。

死してなお生かされ続ける
甘美な地獄を思った。

静かだった道路を
荷台の砂利を撒き散らしながら
大きなトラックが音をたてて走り抜け
その振動が
塵のように積もった花を
揺らす。

つい二時間前も
花はこのように揺れていたのだろう。

「いんあ」(死んだ)

と、涙をぼろぼろこぼしながら
一匹の白いハトの首根っこを握りしめ
その死骸をぶらぶらとまるで菓子折りのようにぶら下げて
真っ昼間の誰もいない公園の腐りかけたブランコの脇で
俺に向かってぽそりと言葉を落としたのは
今から丁度二時間前。

公園の近くは道路工事をしていて
なにか大きなドリルが道に深く恐ろしい穴を開けていて
その地面を削る振動は
花を散らすトラックの振動に似ていた。

ヤコブが震えているのか
この一帯が揺れているのかは分からなかったけれど
泣いているヤコブの涙が揺れ落ちて
乾いた地面をぽたぽたと潤していて
それらが強くなり始めた日差しに
後も残さずに
消えていくのを
じっと見ているのは心地よかった。

ヤコブの頬から顎にかけて
直線と曲線でできたまだ生暖かい傷は
鳩を食らう猫を止めようとして
その盲目の猫の長い爪によってえぐられたのだった。

「あええ」(やめて)

俺が発情している盲目の猫に向かうのを見て
ヤコブは涙の枯れた目で俺を見て
脆弱な両腕で俺を止めようとした。
傷はもう痛くないからやめて、と、
せがむヤコブを押し倒し蹴りつけ
もう一度泣き出すのを待ってから振り返り
茶色と鼠色をした薄汚れた猫の
まだヤコブの血液がついた爪を
一本ずつ、
一本ずつ、
きれいに剥いだ。

騒ぎ牙を剥く猫の口に
公園の土を詰め込み
咳き込みながら
目やにだらけの価値のない目に涙をためる不幸な猫の
その手足に爪がなくなったことに安心してから
猫を思い切り放り投げ、
それから
ゆっくりと
再び、泣いているヤコブの頭を撫でた。

怪我を治してはいけない。
ヤコブの傷は残さなくてはいけない。
短くなった舌も
醜いコブも
今日できたばかりの爪痕も
すべては

俺とヤコブのあいだでもって
たからもののようにたいせつにして
めにみえるかたちとしてのこして

そうして新しい明日や季節を迎える事が
俺たちにとってどんなに大切かを
殴っても愛撫しても
しゃがみ込んだまま泣き止まずに
耳を塞いで俺の声と町の音と振動とを
自分から遠ざけようとするヤコブに
今、きちんと教えなくてはいけない。

だからこちらを向いてくれと
まったくもって顔を背けたまま
嗚咽が嘔吐にかわりつつあるヤコブに
出来る限り丁寧に静かに頼みながら
小さな頭の後ろにぶら下がる
髪の毛の束をゆっくりと引っ張り上げる。

050519

もぐらが土を掘る音が聞こえるぐらい静かだった。
盲目の醜いそれが土を、空に向かって掘っている。

暗闇しかない生き物が眩しい朝の光に向かって進む。
光の中に晒されて盲目になって慌てて土に潜り、
盲目であることを忘れてまた這い上がる。

くりかえす不毛。
しかしながら土は耕され、
新緑が芽吹く。
もぐらはそれを見る事はない。

台所の机を挟んで
俺とヤコブは坐っている。
ヤコブが冷凍庫から差し出した
ヤコブの大好きな
牛の絵のついたアイスクリームがどろどろに溶けて
机が白い液体にまみれている。

「ええ」(ねえ)

ヤコブは口を開こうとしたがやはりまた閉じた。
俺は煙草をくわえたまま、床にその灰を落とす。
机の端から液体がたれる。甘くて白い液体が
斜めに歪んだ台所の床を滑り、ヤコブを濡らす。

ヤコブは何も悪くない。悪いのは全て俺だ。
ヤコブは唇を噛み締め、俺を上目がちに見る。
額のコブが低い窓から入る低い光に鈍く醜く光る。
俺は喋らない。喋れない。
頭の中でヤコブの為に失った物を一つずつ数える。

一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十、
十一、十二、十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、二十、
二十一、二十二、二十三、二十四、二十五、二十六、

二十六まで数えた時に、
トリの鳴く声がした。

庭の、枝に、細い足でしがみつき、
トリは力強く鳴いた。

「ああ。」(ああ。)

ヤコブが目をつむる。

あれは姉の方か?妹の方か?

二匹の声はとてもよく似ていたので俺には分からない。
ヤコブにも分からない。
どちらかではあるけれどでもどちらかは分からない。
だからヤコブは何も言えない。

すくなくともあれは
共に襲われたのに虎縞の猫の本能によって
選びとられ食われる事のなかったもう一匹の方。

黒ずんだ庭に鮮やかに散る赤は

肉片なのか 

鮮血なのか

姉か妹か分からないが
狭く鉄の味のする鳥籠から解放された喜びに
嬉々として
高らかに
声を上げて
鳴いていた。

歌っているのかもしれない。

籠の中では決して歌わなかった歌を
もうまばらになった
姉か妹の肉片のそばで
晴れ渡った空の下
朝のまぶしいひかりにつつまれて
その
姉だか妹だかは
歌い続けていた。

俺は昨日に食べた卵と肉を吐いた。
卵も肉も全ての色は混じり黄土色で
白い液体の上にさらに混じる。
解体をすませ悠々と食らう猫が、
骨が喉に刺さったのか嗚咽を繰り返した様に。

俺と猫の決定的な違いは、
猫は吐いてもなおその肉を食らった。

吐いても食い吐いても食った。

頭がくらくらする。

ヤコブは何も言わない。
吐瀉物とアイスクリームがまじったそのすえた匂いに
鼻腔を膨らませてうつむくだけだ。

少し前、
窓の向こう、
猫の口に挟まれた
小さな
白く柔らかくあたたかな羽に包まれたトリは
その全てをくわえられたまま
その腹を膨らませたりへこませたりして動いてた。

それは俺とヤコブのものじゃなかったのか?
俺とヤコブに属するものじゃなかったのか?

誰のものでもないのか?
お前のものなのか?

日差しが俺をなぶった。
俺の皮膚を痛めつけた。
じりじりと音をたてて皮膚を焼いた。
いっそ燃やしてくれ。

日に当てなくてはと窓の外に鳥籠を出したヤコブを。
朝日の中逆光に影になる
小さなヤコブと小さなトリ達を
なんとも言えぬ幸せをもって見ていた俺を。

たまらなく愛おしくなってヤコブを抱きしめ、
「いあい」(痛い)
という声に欲情し肌に手を伸ばしいつものように拒絶され
狂おしくなって一人便所に立てこもり悶え足を踏み外し
汚物にまみれ水場で懸命に洗剤をつけて衣類をたわしで擦りながら
猫がトリを襲う姿に失神して倒れたヤコブの物音で我に返り、
ヤコブの過呼吸の音と逃げ惑うトリ達の羽音が混じり、
慌てて窓を叩き割ってその穴から見た風景は

時間が巻き戻らない事にいらだちを覚え
ふがいない自分の舌を噛み切れず
痛みに弱く恐怖に屈する俺を燃やしてくれ。

なあ、トリはとても白くて
この床に広がる白い液体なんかよりずっと白くて
いやこの液体はもうなんだかわからない色になっているよ。
この腐ったような匂いは
もう目をやることもできないそこの庭にも

ヤコブ、お前が思っているよりも俺はずっと

蜂蜜よりも甘く鳴く
無能だし俺にもヤコブにも
なつきもしなかった
あの二匹を

俺はヤコブ、
お前よりもきっと、
いや、お前の為なら俺だってあの二匹を食らうよ。

でもそうじゃないんだ。
そういうことじゃない。

椅子の上で膝を抱えこむ。
始まったばかりの一日が終わるのを待つ。

ヤコブは割れた窓を見る。
もう歌の聞こえない庭の方を見る。
唇から血が滲んでいる。
猫はまだ嗚咽している。
ヤコブは口をあけ、
何か呻いた。

「××××××。」

その横顔は美しかった。

ヤコブの顔と台所がゆっくりと橙色に傾く。
煙草が唇を焦がす。

050823

小さなサカナは、確実に、その命を終わらんとしていた。
しかしもちろん、サカナの意志によるところではなく、
さらに、その強い本能によって、
必死に生きながらえようと動き続けていた。

死ぬまで彼らは死ということを理解し得ない。

犬を打ち据え殺す時には何も感じないのに、
水槽の中のこの小さな生き物に、
頭が足りなくて舌が半分足りなくて
額に醜いコブのあるヤコブが、
始めての祭りで、
一匹もすくえなくて、
でも俺も、
何度やってもすくえなくて、
そのうち手のひらで掴もうと
手を突っ込んでも
捕まえられない俺とヤコブに、
テキ屋の若い男が、
「死にかけてるから、これやるよ。」
と水色のビニール袋に入れてくれた
この小さな、所々赤い生き物に、
どうして俺はこんなにも
感情を突き動かされるのか
まったく理解できない。

「いんあうお」(死んじゃうよ)

ヤコブは水槽の前でなすすべも無く
祈るような手つきのまま、
俺とサカナを見比べる。

俺にもどうしたらいいか分からないことを
ヤコブがどうして、分かるはずがない。

雨が石つぶてのように窓をがりがりと削っている。。

もうサカナの体は殆ど動かない。
空気を循環させるポンプが酸素を水中に送り込み、
その対流が、サカナを容赦なく水槽のガラスの壁に打ちつける。

しかしポンプを止めたら魚は息もできないだろう。

かろうじて口を開けたり開いたりしているその姿は、
ヤコブが何か言おうとして
何を言ったらいいのか分からなくなって、
なんども口を開けたり閉めたりしているうちに
よだれがたらたらと垂れ落ちるさまに
とてもよく似ていて、
ヤコブのように目がぎょろぎょろと大きくて
閉じることを忘れてしまっていて
伝えたいことも伝えられない、
ヤコブのようなサカナは
サカナのようなヤコブの前で
苦痛だけを
伝える。

風に弄ばれる誰かに捨てられたビニール袋のように、
サカナはふわりふらりと浮いたり沈んだりを繰り返す。

サカナが水槽の底で休もうとしても、
その小さな体は浮いてしまう。

病気はすでに末期のようで、
時々狂ったように全身を痙攣させる。

ヤコブが怖いものに直面した時に
癲癇をおこすのよりももっと切実に
その痙攣によって
残された生命力を
容赦なく削られていくのが
二人には分かった。

二人して、
祭りの後、
大喜びで、
囲い込んだ小さな魚の
目の前でゆっくりと死に向かって苦しみもがく姿を
見ているだけの
この長い夜は

唇を噛み締めすぎて
血を滲ませる
子どものような大人二人の前で
とても綺麗なよく透き通った水槽の中で
絶え間なくはじけては消える泡とともに

ゆっくりと終わりを告げた。

サカナは動かなくなった。
どこかへ逃げた。
悪臭のする肉体だけを置いて。

雨がその勢いを増していて、
ドアを開けると靴が全て水浸しになった。

俺とヤコブはびしょぬれになりながら、
素手で土を掘り返し、
今やちっぽけな、
目の開いたままの、
小さなサカナを、
まだ花の咲いたことのない小さな梅の木の根本に
深く、深く、埋めてやった。

時計の針が時間を刺し貫く深夜。

がたがたと動き続ける酸素ポンプの音と振動が煩くて
でも消せなくて
ヤコブと二人でずっと、
ぶくぶくとたつ水槽の泡を見ていた。

「い え い」(綺麗)

ヤコブがゆっくりと言葉を喋った。

水槽の向こうでついたままの電球の光が、
揺れ動く水の間で屈折を繰り返し、
虹色が暗い部屋のあちらこちらで
ゆらゆらと動いては消えたりした。

俺は耐えきれなくなった。

それらは
あまりにも簡単に
消えては戻らない。

届かないよ、ヤコブ。
俺がいくら手を伸ばしても
いくら犠牲をはらっても
だれもみてくれもしない。

ただただ、
減っていくんだ。全て。

お前も気付かないだろう?

お前もいつか
はらわれる
犠牲なのかとも思っているよ。

枯れた花びら
必ず死ぬ動物
戻らない季節

ああ、
なぜ皆そんなにも嘘をつく?

なあ、ヤコブ、
全てにおいて、
お前はだまされたなんて思っていないと
俺は思うけれど、
俺とお前だけは、
いや、お前のことは俺には分からないけれど、
明確な真実なんて俺の中にしかないのだから、
だから生きているのも嘘で
死んでいるのも嘘で、
お前が俺のことを思うと言うのも嘘で

なにもいいことがないのに
何故俺は色とりどりの素敵な夢を見させられるのか!

頭の中の言葉と
ヤコブに向かって
唾を飛ばして喋る言葉が
ごちゃごちゃになって
気を失いそうだ。

俺は気がつくと
水槽をひっくり返し
その割れて飛び散ったガラスの破片で
血みどろになりながら、
泣きわめくヤコブの
どうしようもなく突き出た
額のまん中にある大きな瘤を
なんどもなんども叩いて
少しでもへこませてやろうとしていた。

だってそうしたらヤコブ、
だれもコブのないお前のことを
ヤコブだなんて呼ばなくなる。

そうすればお前は
その醜い顔ででも
誰かに愛してもらえるだろう?

俺以外が全て嘘でできているから
嘘の存在同士で仲良くやればいいじゃないか。

だから泣かないでくれ。
俺達は他人なんだ。

畳がぐしょぐしょに濡れていて、
その水からは
腐ったサカナの匂いがした。

ヤコブ、いつだったか、
病気でぐったりしていたサカナを、
二人ですくってやったことがあるだろう。

エラ以外はどこも動いていなかったから、
俺達でもすくってやれた。

俺達は優しい気持ちで、
よかれとおもってすくってやったのに、

サカナは、弱った体で
手のひらの上で
懸命にそこから出ようとのたうちまわっただろう?

あの時

「いいえいうお」(生きているよ)


とても嬉しそうに言ったお前と
その底知れない生命力でもって
俺達から逃れようとしたサカナと
お前をこうしてくりかえしぶつ俺とは

なにでもってつながっていて
なにでもってはなれていくのか

ヤコブは

「い あ い」(痛い)

という馬鹿にも分かる事実しか言わなかった。

雨が強くなって嵐になって
梅の木を根本からへし折る音がした。

嵐は
ごうごうと
ヤコブと俺とが二人だけで住む
小さな部屋を
生みたくもなかった赤ん坊の眠るゆりかごを
できるだけ粗雑に揺らす疲れた母親のように
大きく、大きく揺らした。


http://www.toca.jp/story/post_18.html
甲斐博和
2008.03.29