医院はもう医院としては機能していなかった。
白かったはずのモルタルの壁は黄ばみひび割れていて
窓には棚の雑誌が積み上げられ外は見えず
緑色のリノニウムの床の四隅は剥がれ虫の固まりが見え
診察台の合皮はところどころ破れ綿がはみだし
誰かがその上に寝そべっていたであろう時間が
まったく真実味がないことのように思える。
しかしカーテンだけが
普遍的な真理を歌うロシアの革命家のように
力強く鮮やかな赤色を発していた。
これだけはあの頃から変わらない。
ダンスホールのビロードと同じ赤。
医者は医者ではなくただの病気持ちだった。
診察を受けた女達は彼の愛撫のような触診と
人間に対する無謀な距離感によって
二度と医院には来なかった。
しかし男達は医者の稚拙な治療を受けにきていたし
女達も彼を嫌うことはなかった。
それは彼が町のダンスホールで
誰よりも妖艶に踊るからだった。
薄いカツラの髪と黒ぶちの眼鏡を
吹き飛ばすほどに頭を揺らし
小さすぎる柄物のシャツのボタンが
ちぎれるまで体をくねらせ
先の尖った靴で
誰よりも滅茶苦茶で誰よりも数の多いステップを踏み、
汗と唾液と、
時間帯によっては涙を、
しぶきをあげるようにまき散らし、
嗚咽のような歌を歌い、
ホールの清掃の時間までは指の先まで踊っていた。
医者にとって踊っている時間以外は死んでいるのと同じだった。
何一つうまくいかない生活に抵抗する術を知らぬまま、
思いのたけをひどいどもりによって発音できぬまま、
毎晩同じような歌が流れるあのホールで
雄弁に吐露していたのは、
痺れるような孤独だった。
実際に医者は痺れていたし震えてもいたが、
誰かとどうにかして繋がりたいという、
なめくじを絞ったようなじゅくじゅくしたその願望を
ホールいっぱいに溢れさせていた。
そこにいる客もしくは町の人間たちは
彼の願望を誰もかなえてあげることができぬまま、
共に踊ることもせぬまま、
しかしある種の神懸かった巫女を見るような
畏敬のまなざしを向けていた。
楽しいとか幸福とか満足とか
そういった類いの充足ともっともかけ離れた、
助手のいない医院に一人でいる間、
医者は雑誌をめくりながら何を思っていたのだろうか。
雑誌に書いてある全ての文字を拾い、
声に出して読み上げ、
その意味を素通りさせていく頭の中の激情の渦を、
少しでも誰かに知らせることはなかったのだろうか。
医者はしかし去った。
この町以外のどこに、
あの医者を、人として、
受け入れるところがあるだろうか。
そんな場所も求めなかったのかもしれない。
ダンスフロアに汗をしたたらせながら
くるくると回りながら外に出た医者は
本当に姿を見せることはなかった。
赤い靴を履いた少女が世界の果てまでを踊りくるうように。
もうじき柿も腐る。
腐った柿は医院の庭に落ち
ぴしゃりと跳ねて
壁に染みをつくるだろう。
それを太った猫が舐めに来る。
医者が唯一餌をあげた愛情を捧げた
苦しむことのないように子宮を取ってやった太った猫が
医者にもらっていた餌と薬を舐めるように、
モルタルの壁を舐める。