台所はとてもちいさいけれど、
椅子を二つおくことはできる。
緑色の椅子と茶色い椅子。
赤い台には二つのコップ。
二つのコップの色は透明。
机の上には、干物のげそが数本。
姉がそれをくちゃくちゃとかんでは、
コップに入っている水を飲む。
姉は煙草に手を伸ばし、
ライターがないようで、
ガス台で火をつける。
私は、流しの脇の椅子に腰掛け、
姉を見たまま、後ろ手で窓を開けた。
古い窓は軋みながら悲鳴をあげた。
夏の匂いと虫の声が流れ込む。
「嫌?」
「別に。」
「あっち行っててもいいよ。」
「お姉ちゃんが来てっていったんでしょ。」
「うん。」
「何?」
私は姉から目を離さず、
姉は私から目をそらし、
隣の庭から突き出ている、
大きな松の木の深い緑色を見ている。
姉が見るその緑色に目をやってみた。
庭の向こうには家が建っている。
昼間なのにシャッターが閉まっていた。
「隣の家のシャッターが閉まってる。」
「開けたからよ。」
「ん?」
「こっちが開けるとさ、あっちが閉めるの。」
「なんで?」
「見られたくないんじゃないの?
別に見たくもないのにさ、でも見せたくないんだろうね。」
「ふうん。」
私は暫くの間、となりの家を見ていた。
隣の家の庭からは
時折虫が鳴くが、
夏の虫なのか秋の虫なのか分からない。
名前の分からない鳥のさえずりも聞こえる。
私が母親と住む町よりも、
工場の音がしないだけ、静かだ。
姉がこの古いアパートに住むようになってから
三年半が経っている。
役者をやっていると言っているが、
スナックで働いている時間の方が長い気がする。
女優というような華やかな顔では決してない姉が、
この先どうなるかを考えると、
不安でもあるしどうでもいい、という気持ちにもなった。
「猫、いる?」
いつのまにか私のことを見ていた姉が、
小さな声で私に言った。
「猫?」
「猫。その、裏の、あっちがわ。
コンクリートのしかくの上。ふとった白い猫、いない?」
裏庭と呼べるほどの広さではないが、
その、隣とを隔てるトタンの壁とアパートの間の、
じめじめと湿った細長い場所には、
飛び石のように四角いコンクリートの固まりが並んでいた。
「いないよ。」
「隣の部屋の洗濯機の上。」
「・・いない。」
「・・そっか。」
姉は、煙草を、灰皿に強く押し付けた。
「動物とか、大丈夫なの?」
「ん?」
「犬とか猫とか、嫌いだったでしょ。」
「猫にもよるの。」
「え?」
「いい猫とね、悪い猫がいるのよ。
いい猫は、だいたい前世が人。顔とか、仕草がね、人なのよ。
悪い猫は、動物。考えるとか、そういうのしないで、
ご飯食べて、あたりかまわずおしっこして、そういうのは
嫌なの。嫌いなの。」
「・・動物は、動物だよ。」
「違うよ。」
「・・」
シャッターがガラガラと開く音がしたので、
隣の家を見やると、またガラガラと閉まっていった。
取り残された気分になった。
姉からも、隣からも。
時間も季節も、私を置いて進んでいく。
前になんか進んでいない姉も、
私を置いてどこかへ進むのだろう。
私と、
心配性のリスのように小さくて怯えてばかりの母と二人を置いて。
「飲み物もだしてなかったね。」
姉はそう言うと立ち上がり、
それから小さなやかんに水を入れ、火をかけた。
「冷たいの、今ないんだよね。珈琲でいい?」
「うん。」
「珈琲大丈夫になったの?」
「うん。」
「そっか。」
姉は曖昧にうなづくと、
また煙草に火をつけた。
「吸い過ぎじゃない?」
「・・普通さ、猫って、ツナ缶とか、サカナとか、食べるじゃない? 」
煙草を吸うことは当然の権利でもあるかのように
私の問いにはこたえず、姉が少し私に身を乗り出しながら喋った。
「でもね、そこに、結構いつも、昼の時間にいたんだけど、
さっき言ってた、太った猫。そういう、サカナみたいなの食べないからさ、
試しにキャラメルコーンをあげたらさ、喜んで食べたんだよ。
それからはさ、キャラメルコーンばっかり。
あんな甘いの、よく食べれるよね。」
姉はにやにやしながら私を見る。
「あんたと一緒。」
「・・猫、死んじゃうよ。」
姉の笑いが消える。
ごくごく小さな、細い針で
ゆっくりと腿の内側を
刺すように、言葉を続ける。
「甘いの食べ過ぎるとね、猫って死んじゃうんだよ。知らなかった?」
カタカタ、とやかんが音をたてる。
作りが悪いガス台なのか、
やかんのカタチが悪いのか分からない。
うつむいた姉の沈黙の中の後悔を垣間見ながら、
私は姉をみることにも飽き、
台所とは反対側の窓の外に見える木蓮の木の葉が、
夏だというのにしなびているのを不思議に思った。
姉はとたんに立ち上がり、
灰皿に引っかかり灰をばらまき、
そのまま外に飛び出していった。
煙草の灰が私の裸足の足をさらさらと滑り落ちた。
姉との、自問自答と後悔を繰り返した時間の、残りかすに見えた。
私は、ガス台を止めると、
しゃんしゃんと音をたてるやかんが
静かになるまで待って、
力をいれて、窓をゆっくりと閉め、
そのガラスに耳を当て、
しんとしたこの小さな台所で、
本来この場所にいるはずの人間の代わりに
隣の家のシャッターが持ち上がる音を待った。