よもやま

信仰、について思ったこと。

僕は無神論者だ。多分死ぬまでそうだと思う。
クリスマスではしゃいだ後、年が明ければ神社にいく。
神社とお寺の明確な区別もつかないまま、
周り人達のやり方を見ながら賽銭箱の前で手を打つ。
コダワリもなければ知識もない。

宗教そのものに対しての考え方も、クソ生意気な高校生時代から、
「宗教の存在ってのは、人間の弱い部分を補う、拠り所的な感じなんじゃね?」
というようなニュアンスで捉えていた。
とんがっている時期に、たまたま連れられたアメリカの教会で、
全員ウービーゴールドバークのように歌い上げている姿に
まったくついていけなかった経験がそう思わせたのかもしれない。
まあでも、大まかには、今もそう考えている部分はある。

ただ、山奥のお寺や神社(ここも区別は特にないわけだが)の、静謐な雰囲気は好きだ。
それは誰もいない古い教会のステンドグラスから差し込む光だったりもする。
何かを信じている人が作るものや空間はもともと好きなのかもしれない。

そして先日、信仰深い友人と妻と三人で、長い時間、色々を話していた。
さらに色々があり、とにかく、それまで不安の沼に溺れそうだった僕の妻に対して、
彼が祈りを捧げてくれることになった。
その「祈り」を見た時に、僕の信仰に対する勝手で一面的な考え方が、大きく変わった。

一人で祈るのは、きっと、「頼む」ことが多い。
世界が平和になりますように。あの人が健康で幸せでありますように。
人という存在は大概にして無力だからこそ、祈る。
だから僕は「拠り所」という捉え方をしていたのだと思う。

でも僕が見た友人の祈りは、何かが違った。
祈りの言葉だけを拾えば、きっと一人で祈る人達と同じだ。
無力さを嘆き、神に助けと導きを求める。
ただ、初めて、真剣に誰かが誰かの前でその人の為に祈っているのを見たのだが、
それは、祈祷者が神に何かを頼むだけではなくて、
祈祷者も、祈られる側も、そして神さえも、同じ線で結ばれ、共存していたように、
僕にはそう思えたのだ。

人間はとても不確かで、
純然たる愛なんてものはもう幻のように見えづらくて見つけにくくて、
聖職者だって罪を犯すこの現代で、でも、その瞬間、
僕の目の前では、神の代弁者のように目の前の人の為に心をつくし、
また寄り添う彼の姿があって、その彼の愛情をただただ感じている妻の姿があった。

僕は、感覚でものを書くわりには、
現実世界の人間に対して、理解することはできたとしても、
共に感じたり、共に存在するなんてことは、殆どない。
男と女の差である、という見方もあるのだが、結局は感じ方一つなのだ。
「人の気持ちを頭で理解する」のではなく、
「人の気持ちを心で感じる」ことが、愛する、ということなのかもしれないし、
「人だけではなくて全ての存在を、理解するのではなくて感じる」ことが
宗教なのかもしれない、と、ぼんやりと思った。
「拠り所」でもなく、「支える」のでもなく、ただ、共にいて、共感しあえる。
それは犠牲でも無償でもなく、
もっとそういう方向性すらをとっぱらった、とても純度の高い愛なんじゃないだろうか。

結局言葉にしてしまうと、
ブルースリーの言うところの、
「考えるな、感じろ」という一言に集約されてしまう位の、
ちっぽけな僕の発見だし言葉にうまくならないままではあるのだが、
きっといつか、いや、そんなに遠くないいつかに、もっといい言葉で、
言葉じゃなくても作品の中で、僕があの瞬間に感じた何かを表せたら、と、
そしてこの事を忘れたくないと、そう思った。


昨日見た映画。 「リリイ・シュシュの全て」
岩井俊二監督の作品の中で、一番好きだった。
構成や台詞やインサートや田園風景でもなく、
少年少女達の表情が、忘れられない。
少年達の叫びさえも、祈りに思えた。


http://www.toca.jp/days/post_377.html
甲斐博和
2011.05.26