感謝編
昨日という日は長い、そして幸せな一日だった。
9月18日から始まっていた茨城県水戸市の水戸芸術館で行われていた、
第14回水戸短編映像祭が、昨日9月20日に終了した。
その最終日、コンペ部門に僕は参加し、
八つの作品が上映された後に、最終的な審査が行われ、
結果、グランプリを頂いた。
4年前に運良くぴあフィルムフェスティバルに参加させてもらった後も、
その他の映画祭については無知なままで、
映画について真剣に向き合い始めた2年前、
ようやく色々な映画祭の存在を知った。
その中でも気になっていた水戸短編映像祭で賞を頂けたことは大変嬉しかった。
なにより、壇上に立って客席を見渡した時に、
号泣(をこらえているがほぼ号泣)していた妻を見た時に一番感動した。
審査員長の富永監督がおっしゃっていたように、
今年は(僕の作品も含め)モチーフや登場人物が似通っている作品が多く、
また、評価的にも、どれが選ばれてもおかしくないものだった。
賞、というのは本当になにかタイミングが重なった、運に等しいものである、
と実感する結果になったし、自分の力不足を痛感もした。
ただ、観客の方々に見てもらえる機会を頂けた事が単純に嬉しく、
名前を呼ばれ壇上に立った瞬間は、スタッフや役者の方々、
更に映画祭に関わる全ての方々への感謝の気持ちで一杯だった。
皆様、本当にありがとうございました。
人に支えられて僕の作品は作られています。
そして皆様への感謝は、次の作品でまた伝えたいと思うのです。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
ゴー編
この2年間、映画でいこうと心に決めて演出や技術や色々を探りながら
ようやく2本の映像を作ったあげく、目に見えてくるのは沢山の反省点しかない。
世界はこんなにも豊かて広々しているのに、
僕が描いていることはまだまだ箱庭にもなっていない。
水戸へ向かう二時間ちょっとの間の電車の中、流れ続ける平たい風景を見ながら、
僕は自分のいたらなさを思うとともに、自分の映画の原点について考えた。
僕がTOCA*という団体を立ち上げ、その後脚本を書き続ける指針になっているのは、
根本敬さんという漫画家さんが書いていたあるエッセイだった。
エッセイというか、もう、一言と言ってしまってもいい。
詳細はうろ覚えだが、とにかく、大量の犬の世話をしている男との会話の中の一説が、
強烈に印象に残っているのだ。
犬の餌用のタライを真冬に水で、しかも素手で洗っている男が、
本当は水で軽く流せばいいものを、わざわざそうやって綺麗にしていることを話し始め、
「な、無駄なことだと思うだろう?」と根本さんに聞く。
「まあ」、という感じで困惑する根本さんに、
さらに「無駄なことなんだよ」と勝手に答えを出し。
そして、さらに大きな声で、「でもやるんだよ!」と、どなった。
ような話だった。
この、「でもやるんだよ!」という言葉に、胸をうたれた。
人は、「でもやる」だから生きるんだ、と、思った。
無駄かもしれないこと、を習慣にしている人は沢山いる。
周りがいくら言っても聞かない人もいる。「でも、やるんだよ。」と言って、「でも、生きる。」
その言葉に感動し、最初に書いた台本は、
「でも犬が」という、まあそのまんまなのだけれど、そんなタイトルになった。
それからもずっと、「でもやる」という言葉は胸にあり、
そんな人々を描きたいと、
いつだって空回りして、失敗して、でもどうにかしようとして、
また空回りするような物語を作ってきた。
ただ、人は皆、幸せになりたいのだと僕は感じる。
また、人を愛したい、とも。
でも現実の壁にぶちあたり、もしくは至らなさ故に、
幸せになりたいのに不幸の坂道を転げ落ち、愛したい人を傷つける。
その矛盾が、人間らしいし、そこにこそなにか、幸せや希望的な、
そんなものがあって欲しいと思うのだ。それがどんなカタチであれ。
今回の総評で「ダメな男ばかりが出てくる」という話があって、
確かに、ダメと言えばダメな人達ばかりかもなあ、と思っていたのだが、
ただ、富永監督がおっしゃって下さったのは、「ダメな男は嫌いだが、バカな男は大好きだ。」
ということだった。
ダメ、と自ら認め、それを免罪符にするような男ではなく、
「これ最高!」という前向きで一直線な男だ。
その話を聞いた時、今までずっと登場し続けていた、
「いかんともしがたい状況で必死な/必死になってるつもりはないのに必死な 人達」と
「バカ」という言葉が繋がったように思えて、監督の説明にしみじみと納得したのだった。
だから次回も、やっぱり同じように、
「でもやる」人々の生活の話になるのだと思う。
もちろん、なにかしらの挑戦はするし、それを切り取る角度はまったく変わるかもしれない。
ただ、そういう、僕から見て人間らしい、人間臭過ぎる、
そんな人に、僕の映画の中にはいて欲しい、と思うのだ。
長々とこんな事を、もし壇上に立つようなことがあれば言おう、と、
偕楽園を横目に水戸のあたりで思ったのだが、
このまとまらない溢れる思いに近い考えを、
どうやってまとめるかまでは、思いがいかなかった。
結果、壇上ではまったく触れることはできなかったけれど。
映画祭自体、規模だけで言えばそこまで大きくないけれど、
とても丁寧なスタッフワークで、
打ち上げの時もスタッフの方とあんなに喋る映画祭もないだろうな、と感じた。
「水戸に帰る」監督が多いのも頷ける。
そしてリリーフランキーさんのイラストがのったスタッフTシャツが、
かなり目立っていたのも印象深かった。
それとは別に、とあるスタッフさんが着ていた、
「fuck yoga」と書かれたTシャツが個人的にはとても気になり、
そのことをそのスタッフさんと話していたら「友達が作ったんで、じゃあ送りますよ」
みたいな話になって、びっくりするほど嬉しかった。
なにより、お酒を介しつつ、
富永監督を始め、審査員の方々とお話をさせて頂いたり、
他の監督と話をすることができたのが、一番幸せだった。
もともと人見知りというか、あまりそういう場にいかないで生きてきたのだが、
去年の夕張から、それじゃいかん!と固い決意で、色々な人と関わるようにし始めた。
そこで学んだことや培う関係性が、映画祭の魅力とお土産なんだと、やっと分かったのだ。
かなり遅いスタートなのだけれども。
そして、色々な映画人と話せば話すほど、
他の人に比べて映画の知識が乏しいことが明白になっていくし、
技術の話にもついていけない。
悔しくて映画を観るのだが、その量さえも追いつかない。
でも、TOCA*というチームで10本の舞台作品を作ってきたがその全てが、
僕が作る映像に生かされていることが、だんだんと浮き彫りになってきてもいると思った。
例えば、今回、「生々しさ」や、「そこにいるような感覚」を観ている側が受ける、
ということが評価の対象になっていたが、
「匂い立つような生々しさ」は常に目標であったし、
「他人の生活を覗いているような感覚にさせる」ということにも尽力してきた。
もちろん、カメラマンの技術や才能に助けられたことも大きいが、
少なからず、畑は違えど表現というものは全て繋がっていると信じながら
映画ではない場所でこれまでやってきたことに対する評価を頂けたことが、
今まで芝居に関わってきてくれた役者さん達やスタッフさん達に対しても、
なにか少しでも報えたように思えて嬉しかった。
長文になりそうだと思っていたら、その予想よりも長くなってしまった。
最近長くキーボードを打っていると指の汗が大変なことになる。
昨日は昨日で緊張で手汗が油田のように流れていた。
思い返せば最年長だった、という少し悲しい事実がさらに、
衰えゆくなにか、開き続ける毛穴、を再認識させる。
年を取るのはどちらかというと好きではあるけれど、人生には期限がある。
その限られた時間に、一つでもいいものを、古びないものを、残せるよう、
日々、ひたすらに手を動かそうと思う。
書き終わってる脚本はいくつかあるのだが、これだけ刺激を受けたら、
どうしようもなく新しいものを書きたくなっている。
秋に一本。そのためにはまず良い脚本。明日は喫茶店にゴー。
とりあえず今日は、観なさいと言われた映画を観る事から始めなければ。